涅槃会に考えること
2月15日はお釈迦様のお亡くなりになった日、涅槃会です。
感應寺では、一般の方々にご案内しているわけではないのですが、
本堂に涅槃図(江戸時代から伝わる)を掛けて、法要を執り行いました。
ご法事や参拝された方にはお目にかかったと思います。
(周りの尊者だけでなく、餓鬼や畜生も嘆き悲しんでいる様子がわかります)
さて、お釈迦様はどうしてお亡くなりになったかご存じですか?
いわゆる「死因」は食あたりだったといわれています。
今これほど多くの人々にあがめられている釈迦も超越的な話もなく
あっけなく亡くなられたのかと思うと、ちょっと意外な気がします。
人は生きるときにその基を選べず生まれてくるのですが、
死もまた選べずに亡くなるのが常であるといえます。
しかし、死するまでの間にその人がなにを行ってきたか、
それこそに涅槃への道があると釈迦は説かれました。
ただ、死を自ら選ぶ方法を人間が持っているのも事実です。
仏教では死を選ぶことをキリスト教の様に悪とは見なしてはいません。
では、釈迦の教えでは自死をどのようにとらえているのか?
佐々木閑「日々是修行」から一節を引用してこの終わりのない
疑問を考える一助にしたいと思います。
ただそれは、せっかく人として生まれて自分を向上させるチャンスが
あるのに、それをみすみす逃すという点で、「もったいない行為」なのだ。
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